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執筆者の写真ミウラ

余白=スペースを味わう

23日に今年最後のヨガレッスンを終えました。

毎年最後は時間をとって年納めのリラクゼーションヨガをします。

大テーマは決まっていて「体と心のお掃除」。

今年は陰ヨガを主体に、腎・膀胱経の経絡を刺激するポーズで1年間ため込んだ老廃物を流す時間にしました。

必要のないものを排出する…体にとっても心にとっても大切なこと。

そこにあらたにエネルギーを注入できる余裕ができるからです。

「いっぱいいっぱい」ではなく「まだまだ大丈夫」という余裕を作る。

余裕とは空きスペースであり、余白でもあります。


暮れは断捨離のシーズンでもありますね。

先日、テレビで片付け術の専門家の方が話していたこと。

「ゴールは棚やタンスにスッキリ納めるのではなく、必ず空きスペースを作っておくこと」が収納のコツだそうです。

そうしないとすぐに元のはみ出た状態にもどってしまうからです。

なるほど、いらないものを捨てて片付けるとスッキリしますが、それは一瞬のことで、

数日過ぎると元の木阿弥になります。

「この空きはこれから好きに使えるな」と気持ちに余裕が生まれることに納得したのでした。


ヨガでは「〇〇の部分にスペースを作りましょう」という表現でガイドする先生がいます。

始めはよくわからなかったのですが、だんだんわかるようになりました。

例えば、両手を上に上げ背骨を引き上げるような体の使い方をすると、重力によってつぶれていたひとつひとつの椎骨の間にわずかなスペースができます。そうすることで椎間板に余裕ができて詰まっていた中の組織が活性化していきます。内臓にもスペースが生まれます。次第に体の巡りがよくなり、老廃物は流れて排出され、栄養が行きわたるようになります。これは体にとってすごく大切。

自律神経が整うことで気持ちの面でも心地よさが生まれます。


「余」とは余りのこと。余ってるだけでそれほど重要でないものととらえるか、かけがえのないものと感じるかはケースバイケースであり、人それぞれの感覚でもあります。



私は50歳になる前に「余」の字の意味を父に教えられたような気がしています。

父はもともと字が上手な人で、40代後半くらいから本格的に書を習い始め、師範の資格までとりました。

78歳で亡くなった時に数々の自筆の書を残しましたが、中でも家族の心に響いた色紙がありました。ある時期から実家の玄関に飾ってあり、その筆跡をそのまま墓石に刻んでもらいました。


音に余韻あり

文学に余情あり

絵画に余白あり

人生に余生あり


この書を眺めながら余生とは単に残りの人生ではなく、可能性に満ち溢れて味わい深く、かけがえのないものだと感じながら時間を過ごしていこうと思ったのでした。

そして、偶然にもそれがヨガに繋がりました。


余白は、心の中の空間や時間でもあります。

何の意味もないかもしれないけど、それがあるから日常の社会的な生活も充実する。

ある意味陰と陽の関係でもあります。片方があるから、もう一方が引き立つ。

日常が陽、余白は陰ですね。

これから何色にも染まる白い部分。喧騒の後の静けさ。ただぼ~っとしている時間。

私にとっては、安心できる感覚、自由な感覚を味わう時間。

1年の終わりや新しい年の始めに立ちどまり、そんな余白=スペースを感じる時間を大切にしたいものです。


さて、今回初めて父が残した色紙の話を書きました。

どこからこの言葉を引用したのかがわかりません。

まさか父が残した言葉とも思えません。

もしもどなたか知っている方がいらしたら、出典をお知らせくださると嬉しいです。






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